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◆ナナスザ


会談を終え、車に乗った時は、ちょっと天気が悪いな、ぐらいだった。
屋敷に近付くほどに、空の雲は黒さを増し。窓を叩いていた雨の粒は、驚くほど大きくなって。
「ひどい雨ですね」
同じように窓の外を見つめている相手に声をかけると、本当だね、と抑揚のない声が響いた。
「地下の駐車場のほうへ回ってもらおう。外へ出ただけで濡れそうだ」
「ええ」
こんなスコールみたいな雨、はじめて。
そんな呑気な考えは、振り続ける雨にやがてかき消された。

「水没、ですか」
屋敷からの連絡によると、地下の駐車場が半分、水に浸かっているような状態で。
めずらしく動揺をあらわにした相手に、建物のほうは大丈夫なのでしょうかと聞いてみる。
「排水設備もあるし、床の上まであがってくる事はないと思うんだけど」
多少は濡れるのを覚悟しなきゃいけないかな。つぶやきを聞きながら、ふと。

――――思い付いたそれは、ひどく気恥ずかしい『作戦』ではあったけれど。

「どうして駄目なのですか?」
地下駐車場は使えない、車椅子も足場が悪くなっていて無理。
ぎりぎりまで車を寄せても、多少は歩かないといけないから濡れる。でもこれしか方法がないから。
その『彼』の提案に、上乗せする形で。大きな傘を握りしめてにっこりと笑う。
「しかし」
「……屋敷まではせいぜい100メートル程度ですし。この雨ですから」
誰も見てないと思いますと言外に告げる。激しく叩き付ける雨は白く煙り、たいした距離もないはずの建物の入り口すら見えない。
「濡れるのは、覚悟の上ですし」
「………………」
しばらくの逡巡のあと。仕方ないか、と小さくつぶやいて。
「傘は重たくない?」
正直、叩き付ける雨の重さに腕が痛かったが。平気ですと笑ってみせる。
「僕の背中は濡れてかまわないから、自分の方に傾けて」
「はい」
傘をさした私を、彼が抱えて走る。車椅子が使えない場所では、ときどき抱きかかえてもらうことはあったけど。
――?仮面越し。いつもより、ずっと近いところに顔がある。
「ナナリー?」
「あ、いえ、その」
くっつかないと、濡れてしまうから。言い訳めいた私の声に、彼はふっと笑い声をもらして。
「……足元が悪いから、走らないよ。濡れるかもしれないけど、転んで泥まみれになるよりいいだろ?」
「はい」
白く白く煙る視界。跳ねる水粒はもう霧のようで、ひんやりと心地よいくらいだ。
「平気?」
言葉を聞き取るために、近い距離をさらにつめる。豪雨の音は激しいけれど、逆に気にもならない。
そうっと身を預けたまま、耳に口を寄せて。

「……スザクさん」

彼の歩みが止まった。
雨に隔絶された世界で、私はもう一度、ゆっくりの彼の名を繰り返す。
「……ナナリー」
今だけですから。誰も見ていない、聞いていない、屋敷までのほんの短い距離の間だけ。
「だから……すこし、だけ」
両手は傘でせいいっぱいだから。口で我侭を言うしかできないけど。
「…………」
私の体を片手で軽々と支えた彼は、空いた手でそっとマスクを取ってくれた。
用心のために傘を下げ、顔を近付ける。
「冷たいよ、ナナリー」
彼の顔は濡れていない。マスクに覆われていたのだから、当たり前だけれど。
「……でも。外でスザクさんの顔を見るのは、本当に久しぶりだから」
頬同士を擦り寄せると、私が冷えて濡れているのがよくわかった。いつもは照れて逃げられるけど、今のこの状態では、彼は私の為すままにさせてくれる。
公務でもプライベートでも、いつも一線をひいて近付いてきてくれないから。
どうしても『こうしたかった』と――――醜い独占欲だと、自覚はしてる。

「こら」

でも。ちゅ、と音をたてて唇を頬に当てたら、さすがに怒られてしまったけれど。



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